自問自答史。

自問自答史。土から風に乗るために今までの自問自答を滑走路にしたいと思い筆を取ります。

行ったあかぁ~ん!!! 1999年6月

今回の自問自答、まずはこの写真をみてほしい。

 

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この写真の私、なぜ泣いているでしょう?

 

色々と自分の写真を見返して思うが、本当に表情が素直だな...と感心するのである。その時の感情が全部表情に乗っかって高い波のように外に流れ出る感じ

やっぱり土時代の三大重要"的"シリーズ

科学的、論理的、効率的

に自ら飛び込んでいった私なので、小学校高学年以降の写真は何をしていようが、どこか感情のストッパーをかけている感じにみえる。今からはむしろ自分から湧き出てくる自然中の自然!という感情表現がバイブスを大事なんだから重要なの。だから取り戻したいという気持ちで自問自答を放出して土の私を一区切りしたいんだけど。...なんか土時代の価値観を悪く書きすぎだな(笑)。土時代で得た価値観を風の時代で活かす為に、今一区切りおきたいという感じなのです。

 

とまあ話が逸れたが、この写真の私は

行ったあかぁ~ん!!!

と泣いている。視線の先には

 

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そう私の父親である。

福井県鯖江市の西山公園(鯖江市の花、つつじが有名)で防災体験みたいな催しがあった時の一コマで、消防車で運ばれていく父親の図。猛烈に泣いたことは覚えていて、父親がこわいものに連れて行かれる!!という恐怖感でいっぱいだった。

 

私は昔から、第六感のようなものが強かった。母のママ友とその子どもたちとピクニックをしてる時に、みんなで座ってたレジャーシートのはじっこに女性がぽつんと座っていた。後で、なんであの女の人あんなとこ座ってたの?とみんなに聞いたら、え...?と言われ、みんなには見えていなかった、とかそういったエピソードが定期的にあったのだ。幼い頃は自分の世界にそういう存在がいることが当たり前で、気味が悪いとか嫌な気持ちは一切無く、自然と受け入れていた。

 

しかし、大人の怒鳴り声とか、物が壊れる音とか、耳にカキーン!と響く音、あと物質的・機械的なものに並々ならぬ恐怖感があり、消防車もおそろしかった。そう、車が本当に苦手だった!

この世にいないとされているものよりも、大きすぎるもの、大きな音を出すものが吐き気を催すくらい苦手(実際吐き出してしまうこともよくあった)で、そんなものに父親が乗せられているとなったら!絶対に助けなきゃいけないのに、自分には何も出来ない無力感、そして押し寄せる吐き気でもはやあれはパニックだったと思う。(笑)なのに周りの大人たちは泣き叫ぶ私を笑うばかりで、何で助けてくれないの!という怒りもあり、なおのこと泣き声が大きくなっていたことだろう。

 

こういう、ある状況で大人と子どもの気持ちにギャップがある、というシーンは色んなところであると思う。子どもの時は絶対にこの気持ちを忘れない!と誓いをたてたりしたんだけど、今思い返すと、当時の気持ちが思い出せないということが沢山ある。

忘れることで幸せなことも沢山あるけど、同時に今身近な子どもが泣いているときに共感出来る瞬間が減っているような気がして寂しさを覚えることがある。これは、人の気持ちにもはやその人になってしまうほどいれこむ蠍の私ゆえだろうか。けど、なるべく子どもの喜怒哀楽、それ以外の感情に寄り添える大人でありたいと思う。最後は私の大好きなドイツの児童文学作家ケストナーの『飛ぶ教室』の一文を引用して締めくくりたい。

 

 人生、何を悲しむかではなく、どれぐらい深く悲しむかが重要なのだ。誓ってもいいが、子どもの涙は大人の涙より小さいということはない。大人の涙より重いことだってある。

 

 こういう言葉に子どもの頃出会っているかいないかで人生が変わるよなあ。大人は何でも知っているようなふりをするし、私も子どもから見たらそんな大人に見えていることが沢山あると思う。けど、あなたにとっては軽い痛みかもしれないが、私は今本気で死んじゃうくらい痛いんだよ!と思った出来事が私にも折りにふれてあった。初心に返らせてくれるとても大切な言葉。私も誰かの行ったあかぁ~ん!!!に寄り添えるように。