自問自答史。

自問自答史。土から風に乗るために今までの自問自答を滑走路にしたいと思い筆を取ります。

自分で自分を褒める

トムヤです。暑い日々が続き疲れが溜まっている方も多いのではないでしょうか。私はこの間漬けた梅としょうがのシロップが日々発酵していくのにときめきを感じています。

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自粛生活が始まってから、パートタイム主夫、介護師、この約1ヶ月はパートタイムシッターという3つの顔をライトに使い分けているのですが、そろそろ飽きてきてしまいました。笑

 

が、夏至が終わって1週間経って、私が今したいことは家族のケアなんだと実感。結局私はここに来れたんだなと安らかな安堵を感じています。

 

特に永遠に確実のある祖父と、子供の頃からずっと大好きな祖母という私の感情からするともうザ・陰と陽な2人を死ぬまできちんと看取りたいと思ったのです。

 

そして、祖父母の死に付き合うことが、父のただならぬ祖父からの愛情の欠乏を少しずつ諦めて、執着から解放することに繋がってきていると実感できたのも理由のひとつ。

 

私は何を夢見てたのかと今はくすっとしてしまうけれど、笑顔があふれる家庭、とかお互いを理解し合っている家族という像を頑なに捨てたくなくて、愛があったら家族は笑顔になるし、お互いを理解できると思っていました。

 

でもそれは全く的外れで、愛と理解は全く違う種類のものだったことにこの間の夏至の前日矢で貫かれたように気づきました。

 

そう、私は家族って他人ではないと思い込んでいました。別枠の特別な存在だと。

 

今も特別な存在だという気持ちは変わらないけれど、お互いを完全に理解するなんてこの俗世では到底不可能なことは分かっていたのに、家族とはそれが出来ると思っていたことに愕然としました。

 

この頑なな執着が、「なんでわかってくれないんだろう」という私の被害者意識に全部繋がっていたのです。

 

別の人間であるということは、自分とはまったく違う姿形、だったら感情も当然そうですよね。感じ方も物事の捉え方も何もかも違う。

 

理解しようとすることは出来ても、その人にならない限り、同じように物事を理解するなんて無理。

 

私は家の外で関わる人たちとは、この事実を分かっていたし、受け入れながら人間関係を作ることがおおむねできていたつもりだったけれど、家族そして恋人という生活を共にする人たちにはこの原則がまったく適応できてなかったことに気づきました。

 

自分にとって特別な存在=お互いのことを完全に理解できる、なんてあり得ない。特別な存在だからこそ必要なのは、お互いの意思や感情を素直に誠実に受け止めて、交換していくことなんだと、やっと実感をもって理解出来たのです。

 

そのことに気づいてから、家の中にいることが以前より苦しくなくなってきたし、みんなの良いところ、昔より良くなったことに気付けるようになったのです。

 

この人たちが私を育ててくれた人たちなんだなと、今まではこの家で育ったから自己肯定感の低い、卑屈な人間になってしまったんだという被害者意識が強かったけれど、それぞれに欠点があっても私を育ててくれたことには変わりないし、みんなの好きになれるところを見て付き合った方が何より自分が幸せじゃない!とある種の開き直りで今は家族と付き合っていて。

 

そうしたら、みんなが笑っている姿がちゃんとあることに気付きだして、私はただそういう姿を捉えられなかっただけなのかもしれないなと思いました。

 

思ったより私は自分の不幸が大好きだったみたい。

事実として、辛いことや悲しいことは次々と降りかかっていた子ども時代で、何より悲しかったのはだいたいいつも助けてくれる人がいなかったり、助けてくれると信じていた人に助けてもらえなかったことです。それが家族だったり、先生だったり、友達だったり。

 

だけど、自分の自己肯定感のなさや、他人に翻弄されてる感覚に陥る感覚をぜんぶ他人のせいにしていただけでした。私はそんな風に悩んでいる自分が本当は大好きだったのです。執着とか責任転嫁に気付きたくなかったのだろうなぁ。

 

このことに気づいてから少しの間は、なんだか呆然として一定の悲しみの波が心に打ちよせたけれど、その波が少しずつ遠ざかるにつれて、自分を心から褒めてあげたい気持ちがふつふつと湧いてきました。

 

悲しみ苦しみの悦に浸っていたことは事実だけど、私は自分の悲しみや苦しみをきちんと見つめ続けてきたんだなということも同時にわかったのです。どうしたらそれを克服できるのか、そのトライアンドエラーが今までの私の人生で、そこでしてきたことも出会った人たちも全部今に繋がっていて、私はもがきながらもきちんとできることをやってこれたんだなと。

 

そう思ったら自分で自分を心から褒めたい気持ちになって、ふとこれが自己肯定というやつなのではないか、と思い当たったのです。

 

自己肯定感がないって、本当に悲劇なんですよね。自分のやることなすことに自信がなかったり、自分はもっと出来るはずと、他人からじゃなくて、自分で自分にプレッシャーをかけてしまう。成果が出てるのに、この程度でいいんだろうか、とかこの程度で評価されていいんだろうかって考えてしまう。けどその一方で、こんなに頑張っているのに、どうしてみんな評価してくれないんだろう、私の気持ちをわかってくれないんだろうという被害妄想に繋がっていく。人間関係も歪んでいってしまうし、自己表現がまったく出来なくなる。

 

自分で自分を褒めることが出来るって、本当に強い。自分で自分を励まして、ちゃんと自分頑張ってる偉いなぁって心をケア出来るってことなんだって、今実感しています。

 

けど同時に自分で自分を褒められるって、自己肯定感がなかったら出来ないこと。無理やり自分で自分を褒めようとするのは、またそれも執着や被害者意識に繋がってしまうから。。

 

自己肯定って、〜ができてすごいね!とかそういう種類のものじゃなくて、ただあなたが存在するだけで私は嬉しいっていうことなんだと思う。そういう言葉を貰って、そういう感覚を受けながら育つことが人間の根幹を作るのだと思う。ここにいてもいいという感覚が自己肯定であり、存在を肯定することが愛のひとつなのかもなぁ、なんて。

 

また長々と語ってしまいました。笑

自分で自分を褒められるようになった感動は私的には圧倒的で、このところ毎日嬉しさに溢れて涙してしまうくらいありがたい感覚なのです。

20年くらい自己肯定感のなさに大なり小なり悩み続けたけれど、こんな辛い作業をしなくてもいい世界にこれからはなっていく気がしているのです!風の時代はもっと個が尊重されて、ひとりひとりの輝きが世界を支えていくと思うから!

 

またひとつ、今までよりも楽に生きていけそうな気づきを得ることができてよかったな。明日からもまたしばし、3つの顔を続けていけそうです!