自問自答史。

自問自答史。土から風に乗るために今までの自問自答を滑走路にしたいと思い筆を取ります。

体と心が物質だから食べたいし食べたくない

食べるの好きなのに食べるのめんどくせーとよく思うし、食欲ない時に食べないから元気出ないんだよ!とか言われるとその人への心の扉が閉まる音聞こえる。が、食べるって本当に大事だよなぁと思う。気難しさしかない私。


なんか自分の体や心を物質みたいにみなしてしまっていて、大切にしろとか言われても...みたいな感覚が物心つく前からある。けど、人と話していると、もはやあなたの体と心が私のものなのか?というくらい相手の心身の感覚が私に向かってやってきてしまう昔から。書いててヤバだし怖い。完全に相手が感じているように、その感覚を感じているかというとそれは知る由もないのだけど、自分の体と心の状態や感情がよくわからないから、人とふれあってそれを感じようとしているのかもしれない。やっぱ怖え。


人と関わらないと自分がどういう人間なのかまったく分からないし、自分が自分の意思で実現させたい何かとか本当にないから、相手が何かやりたいと言うならそれを実現するために動く。けど対等でないと感じると一気に拒否感が芽生えてくる。気難しさ...
心療内科離人症っぽいですね〜と言われ、「あまりにも真に受けて心身がボロボロになった時に、そこから気を逸らすために自分の分身をつくり、それを通して自分の感情の負担を軽減させようとするようになったのかも」みたいな話になりうわー...思い当たることがたくさん...って。心理療法で何かヒントがあればいいな。なんか自分の根深い何かに向き合わされているの本当につらみだけど、生きることを諦めるわけにはいかないという揺るぎない気概はあって、けどそれがなんでなのかはわからんという不思議。生きようとする意思があるものだけが生き残るみたいなことミサトも言ってたししゃあなしもうちょっと生きるわ。どうせ生きなきゃいけないなら、自分をもっと楽にさせてあげられたらいいしな。

f:id:daseindeteter:20210703201124j:image

好きを仕事にしてみたら好きの種類が違ったことに気づいた(後編)

随分間が空いてしまった。

前回のエントリーから、状況が色々と変わり、内容に少し陰鬱さが強くなってしまった気がするが、現在の備忘録としても投稿してみる。

 

 

大学事務の仕事は多岐にわたるけれども、共通しているのは、その多くが裏方の仕事であるということだ。

それは言い換えれば、できて当たり前のことをすることである。

私の場合は、学生の履修状況をシステムに正確に反映し、それに合わせた学生の履修相談に応じ、成績を正確に把握し、習得単位数を正確にシステムに反映する。規定の単位を修得し、課程を修了するためにすべて必要な作業ではあるが、学生にとっても、教員にとっても以上の作業は、正確に行われて当たり前のことである。

 

私の大きな関心は研究を、事務やある目的に沿って行うための精査といった、学生時代とはまた違った目線で研究を見ることで、将来の研究の視点を増やしたいという思いがあった。それが叶う部署もあるが、自分のやりたいことを実現するためには、最低でも10年先かもしれないという体感がある。

 

教務は、学生とも教員ともかかわる機会は多い。

 

今自分が学びたいことを学ぶために、貪欲に情報を探したり、その中で生まれた疑問を教務にぶつけてくれる学生もいる。その熱量や、彼らの真剣なまなざしは見ていてとても眩しいし、力になりたいと思わされる。

また、学生時代からお世話になっていた教員と近況や研究の話をすることも本当に楽しい。自分が学ばせてもらった分、力になりたいと思う。一方で、教員てこんな事務的な処理までしないといけないのか、と教員の仕事の新たな一面も発見する。

上に挙げたような熱心な学生はほんの一握りだし、完全に事務職員を軽視する態度を明け透けに出す教員もいる。が、私は人と話すことが正直あまり好きではないほうだが、人の考えに触れたり、新しいことを知るのは楽しい。苦痛を感じることもあるが、学生とも、教員とも話すのは楽しいのだ。

 

だが、学生と教員と接していてたまに感じる虚無感がある。率直な言葉であらわすと、”なぜ私は今そちらにいないんだろう。”

 

社会人になって、これほど自分のための時間が削り取られると思っていなかった。

定時で帰れても、帰って家事や入浴等を済ませると、あっという間に20時近くになる。そこから何かしようと思っても、疲労によって、やりたいこともめんどくさいことになり、スマホをだらだら眺めて寝る時間が来たり。そして、自分の長所でもあり、短所でもあるのだが、仕事のことを考えてしまう自分がいる。

あの業務をもっと効率的になるにはどうすればいいか、それにはこういうことできると良さそう。家に帰っても仕事のことを考え、検索したり、実際にソフトで実践したり。やれることが増えるわけなので、それが特に苦痛なわけではないのだが、やりたいことかと言われると違うと言い切れる。ただ自分の仕事に妥協したくないという思いと、ミスを指摘されて気持ちを萎えさせられたくないという思いに動かされてやっている。

 

私がしたいことは変わっていない。研究なのだ。

未来ではなく、今したいのだ。

この思いは日々膨らみ続けているのだと思う。

 

休みの日に読む自分のしていた研究に関する文献を読んだり、オンラインのトークイベントなどを聴いているときの充実感。私が求めているものがすべてここにある感覚。そこで浮かんできた考えを人に話したいし、話をききたいと思う。人と話すことが好きではない私が、人と話したいと能動的に思える―学びを通してならば、人とかかわることに苦痛を感じない。学問は、自分にとって、人との関わりを保つ方法なのかもしれない。

 

職場の人間関係も良好で、職場環境にとりたてて不満はないのだが、自分の関心ごとを共有できる人は今のところいない。繰り広げられる会話の内容も、たまに耐えかねることがあり、そんな自分に嫌気もさす。資生堂が美白という表現を廃止するというアナウンスに対して、美白の何があかんの?いちいちそういうこと言ってたら何も言えんくない?という会話が聞こえたときは、正直しんどかった。典型的「ポリコレ=表現規制論」を間近で聞くことが、自分の今の人間関係の中で、幸いにも聞くことが少なかったので、ショックも大きいのかもしれない。こういう会話もすべて研究対象にできればいいのだろうけど、日常生活の心身の疲れで、自分の視点を転換する体力もまだ生まれていないのだろう。

 

大学で学び、仕事をする人々が快適に大学生活を送るために、できることはやれるだけやりたいと思う。だけど、自分が求める自分のための幸福は、研究に向いている。それはおそらく当初考えていた数年後ではなく、今やりたいのだ。気づいてしまった以上それをせき止め続けるのは難しい気がしているが、今すぐにシフトチェンジできるかというと、計画と準備が必要でもある。・・・これこそ、お世話になっていた教員に相談すべき案件だと書いていて思った。いつも文章を書いていると思うことだが、書いた方が、自分の本心を理解できるような気がする。同時に、どれだけ自分の感情を客観視することが癖になっているかを実感する。自分の感情を他人事のように感じてしまう長年の癖から解脱したいが、年々その傾向強くなっているふしがあり、こういう人はどうやって自分の感情を向き合っているのかすごく知りたい。

好きを仕事にしてみたら好きの種類が違ったことに気づいた(前編)

4月から母校の大学で働いている。

普通の就職活動をしてみたけど、案の定病んだ。なぜ病んだのかをひもとくと、端的に言って興味がないからだった(もちろん就職活動の根本的なシステム~とか挙げればキリがありません、こちらもまた別途書きたい)。とある児童書出版社だけ選考に進んだが、あとは全滅(いうて片手で収まる数しか受けていない)。児童書出版社の選考に進めたのも、好きという気持ちがあるからだった。そして、最終に進めなかったのは、好きという気持ちをどういう風に出版という仕事として形づくるのかということを明確に考えられなかったからだと思っている。

 

これまで世界の様々な場所で人々が継承し、発展させてきた叡智に対する絶対的な信頼と敬意を私は持っている。その信頼と敬意を植えつけたのは高等教育だった。母校は第一志望の大学ではなかったが、大阪にあるし(当時きょうだいが関西に集まっていたので、安心感があった)、都会だし、という短絡的な理由でセンター試験後に決定した。その後大学が奈良との県境にあることを知り、大学名称の一部である“大阪”という言葉にだまされたことを知るが、それはまた別の話。

 

私は、大学に入って留学することしか考えていなかった。それができれば、周りの大人と同様の道を進んでいくのだと信じて疑わなかった。1年留学して、卒業して就職して。結果的に今そうなっているが、描ける選択肢は入学前の自分とは比べ物にならない(大きな声では言えないが、実際、“今”働いている、というぐらいの気持ち)。

 

大学の勉強で驚いたのは、自分で考えてもいいということだった。自分の考えあるいは仮説をもとに、それを論証する材料を集める。今まで、勉強とはすなわち情報を覚えること、と思っていた自分にとっては衝撃的だった。

そして、根拠を示すという難しさに直面した。今まで、自分が根拠だと思っていたものは、根拠ではなく、「自分がそう思いたい」という願望だったことを突きつけられた。

この根拠を探し、調査・分析するという作業の中で、人々の叡智の堆積に圧倒された。自分が予測したことは、とうの昔に誰かによって予測されており、むしろすでに論拠が示され、それはさらに何歩も先の展望に向かっている。勉強する中で、このような瞬間が数え切れないほど訪れ、面白い!と思うこともあれば、もうこんな昔に議論されてたことだったの…今頃気づいた私って…と心が折れたりすることも(むしろ後者のほうが圧倒的に多い)。

 

知識が継承されていく中で、新たな発想が生まれてきた。そして、その知識継承の場としての教育。教育=学校という私の中の図式に新たな視点を生み出したのは紛れもなく大学だった。この視点に気づいたときに、今まで自分が受けてきた教育に対する違和感の正体も同時に腑に落ちた気がした。先に挙げた、私の“願望”。これは、根拠を伴わない“主張”といいかえることが出来るのだと思う。義務教育から高校まで、勉強はむしろ好きで、ただその中で自分が抱く、意見や疑問を突き詰める時間はほぼなかったように思う。膨大な情報を覚え、点数をとる。その中で生まれる私の願望はどこにも表現することができなかった。感情的な自分にとって、自分の考えを言えない、ないし、自分の考えを言うことを求められていないという学習の場は、違和感の多いものだったと思う。小学生のとき、授業中の発言が多く、クラスメイトに陰口を言われていたという体験も、より自己表現することをやめるトリガーになってしまったのだろう。

 

勉強に対する違和感、そして勉強が行われる場、個人が勉強したいことをしたいと思ったときに勉強できる環境エトセトラ。勉強するという動詞ひとつに、考慮されなければならないものがこんなに沢山ある―。私は、大学に入ってやっと、勉強を構成するさまざまなファクターを知った。そして、これらは教育大学だからこそ、身につけられた視座でもあると思っている。

 

大学生活の中で得た視座、解決にむけて取り組める仕事であれば、自分はなんとか社会の中で動くことが出来るのではないか、と思っていたところ、母校の就職係の職員に採用の話をいただき、選考をあれよという間に通過し、内定が決まった。実際、選考にあたって、困ったことが一切なかった。あれほど、ひねり出さないと出てこなかった志望動機などの質問も、何を聞かれても、動じずにすらすらと受け応えが出来た。やはり、好きこそものの上手なれ、なのだと思う。

 

と書いていて突き刺さる言葉です、好きこそものの上手なれ。

無事嫌ではない仕事に就き、実際日々やりがいを感じているのだが、拭えない“好き”の種類の違い。次回やっと本題に入る。本当は勉強というか研究を続けたかったことに働き出してより気づかされているということが書きたいと思っています。

 

自分の人生をアーカイブする

(2月2日執筆)

今日は姉の誕生日。そして卒論の口頭試問。

姉の子どもが日に日に人間らしくなっていく。まだハイハイはしていないらしいが、腕を使って部屋中を動き回るらしく、急遽柵とベビーマットを購入したとのこと。姉は、電車で行ける距離に住んでいるのだが、今年はまだ子どもの様子を見に行けていない。コロナ対策はもちろん、なんだか自分が忙しく、時間を作ることが出来ていない。早く癒されたい。

 

口頭諮問は、卒業した同期の親友たちの話を聞くとあっけないものらしかったが、心配性の私は5分で終了するスライドとカンペを用意し、想定質問を列挙し解答を用意しておくなど準備を万全にしておいた。しかしいざ諮問が始まってみると、想定質問にはほぼ触れられず、半分近くは教授陣のフィードバックと感想だったので拍子抜けした。だが、教授陣の分析とコメントはさすがで、論の整合性が合わない点を正確に指摘してくれた。論文にインターセクショナリティの観点からLGBTをとらえる視点を書いたのだが、70年代アメリカのフェミニズム運動が、白人女性によって主導され、黒人女性から私たちは女性ではないのかという意義申し立てが行われた。この中で、女性という共通したアイデンティティ以外に、「白人」「黒人」といった人種的アイデンティティが「交差」することで、複合的な抑圧や差別が起きるという議論を提示したのがK.W.クレンショーだった。ブラック・フェミニズムによる異議申し立ては、女性としてフェミニズム運動に携わる権利を主張するものであった。対して、私が論文で引いたインターセクショナリティは、日本ではLGBT(Q+)というセクシャルマイノリティの総体として議論されることが多く、このレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー、さらにクィア、クエスチョニング、Xジェンダーなどセクシャリティの個別性に注目されることが少ない。そこでインターセクショナリティによって、LGBTQ+を細分化してとらえ、そこに人種的アイデンティティ、国籍のアイデンティティが組み合わさることによって、LGBTQ+コミュニティを構成する人々はより複雑な像を持つという議論を展開した。しかし、ブラック・フェミニズムから生まれたインターセクショナリティが、「黒人」「白人」という個別のアイデンティティから、それらを内包した女性という集団的アイデンティティを再構築することを目指していたのに対し、私が用いたインターセクショナリティはLGBTという集団的アイデンティティを細分化することで、個別的アイデンティティへと解体した像をとらえるという逆の論展開となっていた。そこを指摘していただいて、探求に夢中になると、論展開への意識が薄れてしまう自分の改善点に気づくことが出来、ありがたい限りだった。

 

(2月12日執筆)

ここまで書いて、10日くらい間が空いてしまった。ご指摘をいただいたことはもちろん、激励をいただいたことも本当に嬉しかった。指導教員は―というか大学教授の多くがそうかもしれないが、必要最低限の指摘やアドバイス以外に私の論文に対するフィードバックをあまり行わなかった。私は心配性なので、これは本当にちゃんと書けているのか…などと心配することも多かったのだが、諮問の際に、興味深いテーマであり、今後大きく変化していくテーマでもあるので、これからも学術的に、または生活の中でアプローチし深めてくださいという言葉をいただき、なんだかとても嬉しかった。指導教員の専門分野とは必ずしも一致していなかったこともあり、あんまおもんないな、と思われてたらやだな…という不安もあった。しかし、激励をいただき、尚更研究を続けたいという思いが深まり、これからしっかりと資料のアーカイブをこまめに作成・整理し、自分の考えをしっかり言語化し、落とし込む作業を洗練していかねば、という身の引き締まる思いにもなった。情報に触れ、新しいことを知る、それに対してあーだこーだ思うことは好きだが、その情報を記録に残し、あとで読み返したときに把握できるように整理しておくことが本当に苦手なため、これはこれからしっかり取り組んでいきたい課題だ。

 

何かの文章で、写真や自分で書いた文章や絵、訪れた場所のガイドブックや観に行った映画のチケットなど、人生の中で形に残るものをとっておくことで、人生はアーカイブ化されるみたいな記述を読んで、舌を巻いた。自分がその時に何をしていたのか、どんなことに興味があったのか、どんな人たちと、どんな場所で日々を過ごしていたのか。形に残るものは、そこで所有者が体験した記憶や感情も同時に残されている。それを時間の経過の中で、第三者として出会いなおすことで、浮かび上がる当時の風景や思いがある。加えて、それが自分ではない誰かの視線にさらされる時、その人独自の解釈や視点がさらに加わり、見ているものは同じでも、それぞれの風景や感情が生まれているということ、そしてその風景を対話によって共有・交換することができるのが、形に残る素晴らしさだと思う。

 

と考えていると、論文て私は自分をアーカイブする行為の一つだった気がする。現時点での私が探求し、自分なりに考えたことを表現すること。もちろん、論文の意義はそれだけではないけど、表現されていることは本当に個人的なことで、それが読み手に手渡されてはじめて、公のものになるという、考えたらそりゃ当たり前の話だけど、このプロセスを実際に自分の手で経験できたことは自分の中で相当重要だった気がする。コロナ渦で、頭で先行する考えや想像を具体化する手段が奪われている中で、書くことが私にとって意味するものの大きさに気づいた重大な体験だった。とりとめのない文章.....

ゲイであることの自覚が自らの女性差別を発見する(私の場合)

ここ暫くは感じたことをそのまま書いていて、結果的にそれが詩っぽいテイストになっていた。という感じだから、こうやって文章を書くのはここでは久しぶり。

 

昨日卒業論文の提出が完了し、あとは口頭諮問を残すのみ。いざ終わってみたらなんだか喪失感が強く、私なりにこだわって書いていたようだ。内容はLGBTQ+の表象を分析し、相応しい当事者表現とは何かという議論へ一定の結論をもたらすというもの。結局汎用な結論になってしまった。けど、これからは、自分の体感で結論を見つけていきたいなと思う。

 

4年くらい前に本格的に自分は性的マイノリティと呼ばれる集団に属していることを自覚したのだけど、当時は女性も男性も好きになるという感覚だった。今思い返すとバイセクシャル当事者の方々に本当に失礼な考え方だと自省するが、当時の私は、別に「異性愛者にも戻れる」と思っていた。そうすれば、自分はマイノリティになることもなく、抑圧を感じずに生きていけるのだし。こんな考え方だったから、自分はLGBT、厳密にいえばバイセクシャルの当事者であるという感覚が希薄、いや、全くなかったと言っていい。だから、当時、多様な社会問題に対する関心はあったけど、LGBTの問題もすごく楽観的に”傍観者”として見ていた。年々受け入れられてるし、私も同じようなもんだから、もしLGBT当事者に出会っても受け入れられるでしょう。このような極めて雑な視線を、LGBTコミュニティに対して向けてしまっていたのだ。

だけど、男性と初めてお付き合いをして、自分のセクシャリティがどんどん揺らいでいく(それは固定化されていくことでもあった)のを感じた。男性と恋愛関係でいる方が、女性とお付き合いをしていた時より、気楽でいられたのだ。

女性と交際していた時、相手のことはもちろん好きだったけれど、会うたびに妙なプレッシャーを感じていた。「男性」なのだから「リード」しなきゃというプレッシャーだ。デートのプランを立てて、彼女の喜ぶ言葉を言って―イニシアチブをとって、彼女にとって良い「彼氏」にならなければ。私の頭を占めていたのは、「男性としての役割を果たさなければ」という焦燥感だったのだ。今ならわかる。そんなものは私の自己満足でしかない。これは恋愛関係だけにいえることではないが、他者と何かをするときは、相手の意思を確認したうえで計画を決めることが肝要だ。それなしに、一方的に物事を進めるのは完全なるエゴであり、相手の意思を無視することである。しかし、当時の私は相手の意思を、言葉を介さず”察し”、先読みすることが、恋愛関係における「男性」の姿だと疑わなかった。

それが、初めて男性とお付き合いをした時、このプレッシャーを一切感じていない自分に気づいた。その気楽さに加え、私は重度のファーザー・コンプレックスである。父は口数が少なく、厳格であり、オーラルでもフィジカルでもコミュニケーションをすることが好きではない人だった。私は元来の気性だと思うが、人に甘えたくてしかたがなかった。中でも、冷たく見えていた父親に対して、意地でも褒められたい、意地でもよくやったと言って抱きしめてもらいたいという気持ちがあり、父親のいうことはできる限り従い、努力した。しかし、その、今思い返すと涙ぐましい努力にもかかわらず、褒められて抱きしめられるという体験をすることは出来なかった。そして、中学時代に同級生に無実のうわさをたてられ、陰湿ないじめを受けていた時、学校に行きたくないと訴えた私に、父は「それは自分の気のせいだ」と言った。その時、私の中で何かが彼に対して閉じた感覚があった。私の言うことをこの人は信じない。ならばもう何も言わないし、何を言われても従うことは二度とない。この不信感は今でも続いている(年々解消されてきたが)。だが、ただよくやったと言って、抱きしめてもらいたい―この気持ちは蓋をしたものの消えることはなかった。ただ目を瞑ろうとしていただけだったのだ。そして、当時の付き合っていた男性に抱きしめられて再び、この欲求が満たされていることに気がついた。プレッシャーを感じない気楽さ、かつて満たされることのなかった欲求が満たされた。このような経緯で、私は、恋愛において自分が求めているのは、男性なのだと自覚した。

しかし、新たな問いが浮かんできた。「なぜ男性と付き合った時には、プレッシャーを感じないのか」という問いである。付き合う人が、男性か女性か。もちろん個人の性格など他の要素もあるにしろ、私がプレッシャーを感じない理由は、相手が女性であるか男性であるかという理由だけだった。それなのに私は、男性とともにいることにより安心感を感じている。

それは自分と相手が両方〈男性〉だからだ。〈男性〉だから心地よいと感じている、それは〈男性〉-〈女性〉という性別の記号によって、私はコミュニケーションや人間関係の構築の仕方を変えてきたということではないのか。

そのことに気づいた時、私は自分の女性への軽視に圧倒された。男性か女性であるかによって、向き合い方を変えてきたこと。そして、それは男性はこうあらねばならないという規範に無批判に従うことによって生まれたものであった。今では、これは典型的な「ホモソーシャル」であると自認できる。イヴ・セジウィックが提唱した概念で、男性同士の強い結びつきによって、女性差別ホモフォビア(同性愛嫌悪)が生まれるというものだ。私はそれまでに関わってきた男性たちおよび日本社会の男女の言説によって、男性とはこうあるべきであり、それから外れる男性は「男じゃな」い―という刷り込みを受けてきた。それが、女性との交際における、私の女性に対する一方的な態度を生み出し、一方でそれをプレッシャーと感じていた。それは、男性とはかくあるべき、という規範に完全には従うことができないという苦悩でもあった。皮肉なものだが、私は息苦しい規範を生み出してきた主体である(もちろん全員ではないし、私も同時にそれを生み出してきた主体である)男性と交際し、自分が気楽でいられることを発見したことによって、このホモソーシャル的、女性を軽んじる自らの姿勢に気づいたのだ。

このことに気づいたことで、私はジェンダーセクシャリティにまつわる言説によって、人々を締め付ける規範や権力に対する強い興味を持った。それが当時の私のような女性の意思を捨象する態度、そして同時に男性であることに苦痛を感じている意識を説明するものではないかと思ったのだ。私なりに向き合ってきたこれらの知見を、どのように現実に活かしていくか。卒論を書きながら考えていたのは、卓上の学びが大切であることは大前提で、学んだことを現実でどのように実践し、自らの問いに対する結論を導いていけるのか、ということだった。

大学は卒業するけれども、数年後にはまた研究をしたいと考えている。これからの数年間は、大学で学んできたことを私なりに実践すること。そしてそれは、次に続いていくresearchでもある。私がゲイを自覚した時に、男女の非対称に自分が加担しているという自覚を得た時の羞恥。これは、自分が研究をする上で、常に念頭に置いておきたい体験だったのだ。

私に必要なものはいつも私のそばにあったことに今更ながら気づく。命を感じられる存在のために、私の命はある。私は一人で存在することが出来ない。雪の下から空まで貫く杉の木。人だけが私を救ってくれると信じていたさっきまで。雲が過ぎていく空はますます青く、光をなでるように流れていく。その光は私に降り落ち、またあらたな光を誰かに投げかける。私だけの指針が、私だけに降り注ぐ。みんなそれぞれの光に向かって歩いているここを、やっと好きになれそうです。

不満

ストレス耐性がない、神経が細い、繊細、純粋etc

貶し方まで直球から婉曲がございます

これらどれだけ受けたらいいんだよむしろ

あまりに繊細に言葉を扱わないことに

いつもいつも驚いてるんだよ

言葉は貴方達だけのものではない

発するだけで聞かれてそれは

身体に沈み込んで輝いたり澱んだり

人をただただ揺さぶり続けるのである