自問自答史。

自問自答史。土から風に乗るために今までの自問自答を滑走路にしたいと思い筆を取ります。

自分の人生をアーカイブする

(2月2日執筆)

今日は姉の誕生日。そして卒論の口頭試問。

姉の子どもが日に日に人間らしくなっていく。まだハイハイはしていないらしいが、腕を使って部屋中を動き回るらしく、急遽柵とベビーマットを購入したとのこと。姉は、電車で行ける距離に住んでいるのだが、今年はまだ子どもの様子を見に行けていない。コロナ対策はもちろん、なんだか自分が忙しく、時間を作ることが出来ていない。早く癒されたい。

 

口頭諮問は、卒業した同期の親友たちの話を聞くとあっけないものらしかったが、心配性の私は5分で終了するスライドとカンペを用意し、想定質問を列挙し解答を用意しておくなど準備を万全にしておいた。しかしいざ諮問が始まってみると、想定質問にはほぼ触れられず、半分近くは教授陣のフィードバックと感想だったので拍子抜けした。だが、教授陣の分析とコメントはさすがで、論の整合性が合わない点を正確に指摘してくれた。論文にインターセクショナリティの観点からLGBTをとらえる視点を書いたのだが、70年代アメリカのフェミニズム運動が、白人女性によって主導され、黒人女性から私たちは女性ではないのかという意義申し立てが行われた。この中で、女性という共通したアイデンティティ以外に、「白人」「黒人」といった人種的アイデンティティが「交差」することで、複合的な抑圧や差別が起きるという議論を提示したのがK.W.クレンショーだった。ブラック・フェミニズムによる異議申し立ては、女性としてフェミニズム運動に携わる権利を主張するものであった。対して、私が論文で引いたインターセクショナリティは、日本ではLGBT(Q+)というセクシャルマイノリティの総体として議論されることが多く、このレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー、さらにクィア、クエスチョニング、Xジェンダーなどセクシャリティの個別性に注目されることが少ない。そこでインターセクショナリティによって、LGBTQ+を細分化してとらえ、そこに人種的アイデンティティ、国籍のアイデンティティが組み合わさることによって、LGBTQ+コミュニティを構成する人々はより複雑な像を持つという議論を展開した。しかし、ブラック・フェミニズムから生まれたインターセクショナリティが、「黒人」「白人」という個別のアイデンティティから、それらを内包した女性という集団的アイデンティティを再構築することを目指していたのに対し、私が用いたインターセクショナリティはLGBTという集団的アイデンティティを細分化することで、個別的アイデンティティへと解体した像をとらえるという逆の論展開となっていた。そこを指摘していただいて、探求に夢中になると、論展開への意識が薄れてしまう自分の改善点に気づくことが出来、ありがたい限りだった。

 

(2月12日執筆)

ここまで書いて、10日くらい間が空いてしまった。ご指摘をいただいたことはもちろん、激励をいただいたことも本当に嬉しかった。指導教員は―というか大学教授の多くがそうかもしれないが、必要最低限の指摘やアドバイス以外に私の論文に対するフィードバックをあまり行わなかった。私は心配性なので、これは本当にちゃんと書けているのか…などと心配することも多かったのだが、諮問の際に、興味深いテーマであり、今後大きく変化していくテーマでもあるので、これからも学術的に、または生活の中でアプローチし深めてくださいという言葉をいただき、なんだかとても嬉しかった。指導教員の専門分野とは必ずしも一致していなかったこともあり、あんまおもんないな、と思われてたらやだな…という不安もあった。しかし、激励をいただき、尚更研究を続けたいという思いが深まり、これからしっかりと資料のアーカイブをこまめに作成・整理し、自分の考えをしっかり言語化し、落とし込む作業を洗練していかねば、という身の引き締まる思いにもなった。情報に触れ、新しいことを知る、それに対してあーだこーだ思うことは好きだが、その情報を記録に残し、あとで読み返したときに把握できるように整理しておくことが本当に苦手なため、これはこれからしっかり取り組んでいきたい課題だ。

 

何かの文章で、写真や自分で書いた文章や絵、訪れた場所のガイドブックや観に行った映画のチケットなど、人生の中で形に残るものをとっておくことで、人生はアーカイブ化されるみたいな記述を読んで、舌を巻いた。自分がその時に何をしていたのか、どんなことに興味があったのか、どんな人たちと、どんな場所で日々を過ごしていたのか。形に残るものは、そこで所有者が体験した記憶や感情も同時に残されている。それを時間の経過の中で、第三者として出会いなおすことで、浮かび上がる当時の風景や思いがある。加えて、それが自分ではない誰かの視線にさらされる時、その人独自の解釈や視点がさらに加わり、見ているものは同じでも、それぞれの風景や感情が生まれているということ、そしてその風景を対話によって共有・交換することができるのが、形に残る素晴らしさだと思う。

 

と考えていると、論文て私は自分をアーカイブする行為の一つだった気がする。現時点での私が探求し、自分なりに考えたことを表現すること。もちろん、論文の意義はそれだけではないけど、表現されていることは本当に個人的なことで、それが読み手に手渡されてはじめて、公のものになるという、考えたらそりゃ当たり前の話だけど、このプロセスを実際に自分の手で経験できたことは自分の中で相当重要だった気がする。コロナ渦で、頭で先行する考えや想像を具体化する手段が奪われている中で、書くことが私にとって意味するものの大きさに気づいた重大な体験だった。とりとめのない文章.....