自問自答史。

自問自答史。土から風に乗るために今までの自問自答を滑走路にしたいと思い筆を取ります。

あるものに気付かない

今日は畑をやっている母の友達の家へ行ってきました。

野菜をいただきに。

 

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といいつついただいたトルコキキョウの写真。笑

 

農協で地場野菜をおろしている方で、20坪くらいある大きな畑を1人で世話していて、行ったその場で収穫してくれるし、セルフ収穫も可というというお楽しみあり、しかもとれたての新鮮なものがお手頃にいただけるという素晴らしいシステム。毎回本当にありがたい。

 

土をさわって、野菜や花の繊維を感じたり、土を洗い流す時の水の冷たさだったり、人外のものがおりなすものを感じられる幸せよ。。と恍惚していたら、また思い当たることがありまして。

 

 

元々そこまで人間と関わることに興味がなかったので、子どもの頃は1人で散歩をすることが大好きでした。

 

前の記事にも書いたとおり、第六感みたいなものが強かったため、風に色とかにおいを感じたり、水にとろみとか粘り気を感じたりして、私はそういう感覚をみんなが持っているものだと思っていて。笑

 

だけどそういう話をしたら、小学校の年中くらいになってくると気味悪いという反応をされるようになってしまって。

 

友達に距離を置かれたりとか、日記を書く宿題にそういうことを書いたら、先生に直されたりとか。

そういうことが続き、こういう感覚は人に言わない方がいいんだ、むしろ持っていない方がいいんだなと思い出してから、散歩もしなくなり、いつの間にかその感覚がなくなっていました。

 

そして、無理やり友達の遊び方に合わせて人と遊ぶようになって、その中で私は媚びること、人に合わせて平和を保つ処世術を身につけました。

親になんか性格が悪くなったと言われたのも小学6年生くらいの時で、たぶん無理して人に合わせすぎて、仲がいい子が嫌いなものは自分も嫌いなんだと思い込もうとしたり。そういうストレスを家で発散してしまっていたのかも。

 

こんな感じで、自分の感覚を誤魔化す、ないように見せる努力をし過ぎた結果、私は超社会的な人間になりました。人のいうことはちゃんと聞くし、守るし、求められている以上のことをしようと努力したりなどなどエトセトラエトセトラ。生き方の正解を分かったような顔をして、交友関係を形成したり。今思うとなんて必死だったんだ!羞恥がすごい!笑

 

けどやっぱり何か満足できないモヤモヤが常にずっとあって、恋人にそれをぶつけて破滅したり、人の粗探しに夢中になったり、人を必要、不要で判断したり、、今思うと恐ろしい思考回路でゾッとします。笑 結局本来の自分を殺してることを自分でも分かってる一方で、こんな自分を受け入れてくれない社会のせいだ、私は悪くない!みたいな自分を正当化することに本当に必死だったんだろうなって今考えると思います。

 

ただやっぱりその後の1年間のドイツ留学、4ヶ月間の尾道滞在期間を経て、それまでの自分が壊されまくって、今までの自分を恥じるばかりの2年くらいで自信という自信が全て打ち砕かれ瀕死の瀬戸際だったなぁ、、ドイツも尾道もものすごく楽しかったけれども、同時にトラウマも多数蘇るという。笑 いつかドイツのことも尾道のこともしっかり書きたいなぁ。

結局心身ともにガタがきて、昨年の冬みじめな気持ちで実家に戻ることになったのですが、私は本当に実家に戻るのが嫌だったのです。笑

 

家族への苦手意識が強かったし、実家がある町内の人も本当に苦手だし、小学校中学校は嫌な思い出しか正直ないし、どこに行ってもなんだか嵐の前の雲の色みたいな気持ちになってしまって。大学の3年間も盆と正月以外はほぼ帰っていませんでした。

 

だけど帰ってきて、畦道から沈んでいく夕日だったり、雪が降る前のごうっと吹く偏西風の荒々しさだったり、霜が降りて硬くなった庭の苔だったり、子どもの頃大好きだったものが私の心をやさしく溶かしてくれたのです。心から安心して自分を外の世界に投げ出せる、そんな気持ちにさせてくれる風景に私はとても強くなぐさめられた気がします。毎日車も通らない田んぼ道の真ん中を歩いて、あぁ歩くってこういうことだったなって心と身体の感覚を取り戻していくようでした。

 

そんな日々の中で、見えないように封じてた子どもの頃の感覚が戻ってきたのです。あの時ほど強いものではないけれど、土や植物、水、風、太陽、、この世に存在する人ではないものから発されるエネルギーをまた感じられるようになってきました。

 

機を同じくして占星術に出会い、そこから派生してさまざまな自然との関わり方や哲学の実践を知ることが出来たりとか。自分が見ようとしてなかっただけで、たくさんのもの、ひとが私にかかわっていて、そしてわたしにはわたしにしかないものがあるということを知る方ができたような気がしています。

 

あれだけ嫌いだった地元が、今では悪くないかなと思えるまでは好きになれました。家族のことも、絶対に分かり合えないけど、分かり合えないことと、愛情は別物で、私は本当に家族が大切なんだ、だからこそ分かり合えないことがずっと悲しいんだって実感できた。過去のうらみつらみもなんでそんなことに拘っていたんだろうって今は思います。だけど、こういう心境に辿り着くまで、本当に本当につらかった。そんな辛かった私も私だし、過去の自分の傷をゆっくり癒してあげたいなと思います。

 

何でもこれからどこにいても何にしても誰にしても、作っていけばいいんですよね。その時の自分の気持ちに従って生きていれば、いつの間にか心地いい場所とものと人に囲まれて生きていけるような気がします。

 

長々とまとまりなく書いてしまいましたが、大好きな工藤直子さんの詩で締めることにします。

 

 

みえる

 

 

ナスもトマトも机もペンも

みな元気でやっているような

朝がある


風景が透きとおり

ナスやトマトや机やペンが

みえすぎる朝である


みえすぎて

驚いてとびのく朝である


ものたちはおそらく太古から

あたりきのように鮮やかなのであって

わたしは ひょっとして今まで

目を閉じつづけていたのではなかろうか

と思われる朝である

 

工藤直子『てつがくのライオン』より

 

 

本当に私今まで目を閉じ続けていたのではなかろうかという気持ち。これからは、自分の目で感じるままに世界を生きていきたいな。今の私には出来る気がする!!