自問自答史。

自問自答史。土から風に乗るために今までの自問自答を滑走路にしたいと思い筆を取ります。

好きを仕事にしてみたら好きの種類が違ったことに気づいた(前編)

4月から母校の大学で働いている。

普通の就職活動をしてみたけど、案の定病んだ。なぜ病んだのかをひもとくと、端的に言って興味がないからだった(もちろん就職活動の根本的なシステム~とか挙げればキリがありません、こちらもまた別途書きたい)。とある児童書出版社だけ選考に進んだが、あとは全滅(いうて片手で収まる数しか受けていない)。児童書出版社の選考に進めたのも、好きという気持ちがあるからだった。そして、最終に進めなかったのは、好きという気持ちをどういう風に出版という仕事として形づくるのかということを明確に考えられなかったからだと思っている。

 

これまで世界の様々な場所で人々が継承し、発展させてきた叡智に対する絶対的な信頼と敬意を私は持っている。その信頼と敬意を植えつけたのは高等教育だった。母校は第一志望の大学ではなかったが、大阪にあるし(当時きょうだいが関西に集まっていたので、安心感があった)、都会だし、という短絡的な理由でセンター試験後に決定した。その後大学が奈良との県境にあることを知り、大学名称の一部である“大阪”という言葉にだまされたことを知るが、それはまた別の話。

 

私は、大学に入って留学することしか考えていなかった。それができれば、周りの大人と同様の道を進んでいくのだと信じて疑わなかった。1年留学して、卒業して就職して。結果的に今そうなっているが、描ける選択肢は入学前の自分とは比べ物にならない(大きな声では言えないが、実際、“今”働いている、というぐらいの気持ち)。

 

大学の勉強で驚いたのは、自分で考えてもいいということだった。自分の考えあるいは仮説をもとに、それを論証する材料を集める。今まで、勉強とはすなわち情報を覚えること、と思っていた自分にとっては衝撃的だった。

そして、根拠を示すという難しさに直面した。今まで、自分が根拠だと思っていたものは、根拠ではなく、「自分がそう思いたい」という願望だったことを突きつけられた。

この根拠を探し、調査・分析するという作業の中で、人々の叡智の堆積に圧倒された。自分が予測したことは、とうの昔に誰かによって予測されており、むしろすでに論拠が示され、それはさらに何歩も先の展望に向かっている。勉強する中で、このような瞬間が数え切れないほど訪れ、面白い!と思うこともあれば、もうこんな昔に議論されてたことだったの…今頃気づいた私って…と心が折れたりすることも(むしろ後者のほうが圧倒的に多い)。

 

知識が継承されていく中で、新たな発想が生まれてきた。そして、その知識継承の場としての教育。教育=学校という私の中の図式に新たな視点を生み出したのは紛れもなく大学だった。この視点に気づいたときに、今まで自分が受けてきた教育に対する違和感の正体も同時に腑に落ちた気がした。先に挙げた、私の“願望”。これは、根拠を伴わない“主張”といいかえることが出来るのだと思う。義務教育から高校まで、勉強はむしろ好きで、ただその中で自分が抱く、意見や疑問を突き詰める時間はほぼなかったように思う。膨大な情報を覚え、点数をとる。その中で生まれる私の願望はどこにも表現することができなかった。感情的な自分にとって、自分の考えを言えない、ないし、自分の考えを言うことを求められていないという学習の場は、違和感の多いものだったと思う。小学生のとき、授業中の発言が多く、クラスメイトに陰口を言われていたという体験も、より自己表現することをやめるトリガーになってしまったのだろう。

 

勉強に対する違和感、そして勉強が行われる場、個人が勉強したいことをしたいと思ったときに勉強できる環境エトセトラ。勉強するという動詞ひとつに、考慮されなければならないものがこんなに沢山ある―。私は、大学に入ってやっと、勉強を構成するさまざまなファクターを知った。そして、これらは教育大学だからこそ、身につけられた視座でもあると思っている。

 

大学生活の中で得た視座、解決にむけて取り組める仕事であれば、自分はなんとか社会の中で動くことが出来るのではないか、と思っていたところ、母校の就職係の職員に採用の話をいただき、選考をあれよという間に通過し、内定が決まった。実際、選考にあたって、困ったことが一切なかった。あれほど、ひねり出さないと出てこなかった志望動機などの質問も、何を聞かれても、動じずにすらすらと受け応えが出来た。やはり、好きこそものの上手なれ、なのだと思う。

 

と書いていて突き刺さる言葉です、好きこそものの上手なれ。

無事嫌ではない仕事に就き、実際日々やりがいを感じているのだが、拭えない“好き”の種類の違い。次回やっと本題に入る。本当は勉強というか研究を続けたかったことに働き出してより気づかされているということが書きたいと思っています。