自問自答史。

自問自答史。土から風に乗るために今までの自問自答を滑走路にしたいと思い筆を取ります。

有能?無能?いや、全能!

韻踏みなれてないラッパーみたいなタイトルですが、皆さまお元気でしょうか?

ただ今家で茶をしばいています。アイスコーヒーと、昨日作ったパンデピスをいただき、天日干ししていたよもぎかき混ぜ、水分が残っている部分をまた陽に当てる。

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色んな方がおっしゃっている通り、感情がふつふつふつふつ煮えたぎり、韻を踏むに至った今回。とここまで書いて、以降の下書きがちゃんと保存されてなくて絶望したんだが。めげずに書こう...。

 

今週は感情をとても刺激するニュースがたくさんあり、早速太陽と火星の影響をもろに受けている。木村花さんの死でネットの誹謗中傷が話題になる、つるの剛士の安倍首相お疲れ様呼びかけ、ブルーインパルスで医療従事者に元気を、そして極めつけのミクロポリスでのFBIによる黒人男性George Floyd氏の拘束、殺害。

コロナ禍で、人間の感情がより剥き出しになる中、毎週心穏やかにいられたためしがないという感じではあるのだけど、このミクロポリスの事件は心の底からせりあがる感情の流れを感じた。事件現場の映像がタイムラインで流れてきた時、同じ人間がしていることと思えず、言葉を失った。特に、事件現場のFBIの一連の行動は、身体が芯から冷えていくような恐ろしさを感じた。Floydさんの「I can't breathe!」という叫びは暫く忘れられないと思う。彼に心からのご冥福をお祈りする。このことは、気持ちを整理した上で、改めて文章を書きたい出来事だ。

 

この能面を求められる日本社会の中で、感情を比較的おおっぴらに出せた自粛期間は堆積した感情の解放という点では、よい面もあったと思う。しかし、感情を解放することで、一人一人の価値観も露呈する。

この状況で、多く目に付いた言葉が有能、無能という言葉だ。この言葉が使われるコンテクストの多くが人間に対しての評価であり、私はとても違和感を感じているので、今日はこの違和感について書きたい。

 

有能、無能という響きの何が違和感かというと、人が人を選別するかのような言葉の響きと、有能という評価を他者に与えることで、他の無能な人々という存在が現れるからだ。〜したから誰々は有能or無能、という書き方でこの2つの言葉を使っていることが多いのだけど、私はやっぱり事柄と人格は別個のものだと思う。例えば誰かが、何か優れた業績をあげたとして、それはその業績を評価するべきであって、そこに人格的要素が含まれるべきではないのではないか、ましてやネット上の互いの顔が見えない世界では。

家族とか友人とか、その人に深い関わりがある人達が、業績と人格を含めてよくやったね、と評価したり、褒めたりするのは分かる。けれども、ネット上で人格が分からない相手に対して、この行動をとるということはこの人は人間として有能だ、無能だと評価するってちょっと立場を錯誤しすぎでは?上から過ぎでは?と思ってしまう。

有能とか無能の響きって、やっぱり意義があるもの万歳、意義がないものはサヨナラみたいなニュアンスも大きいし、有能無能ということで、人間の間に境界線を遮断してしまうものだと思う。有能側にみんな回ろうとして、一旦有能と他者に認定されれば、平気で人を無能呼ばわりする構図も浮かび上がる。

こういう二元論的価値観を平気で発言してしまうようになると、優生思想、つまり差別を生み出してしまうし、有能無能という個人的な尺度ではかられる価値観が根付くと尚更恐ろしい。何をもって優劣とするかが個人で違うということは、優劣を判断する全人間、全世界に通ずる普遍的根拠がないことを意味する。こういった流れで歴史的過ちは繰り返されてきたわけだし。

 

真面目に語ったけど、二元論はもう捨てて、6月からは本格的に風時代の風が加速するし、有能も無能もない、全能DAZEエヴィバディ!という声が聞こえてきまっせ!200X年代のラッパー降臨してっから。私はみなさんと横並びでヒウィゴーしたいです!!

 

人にはそれぞれの輝きがあって、自分で磨いていく輝き、人に磨かれて輝くものがあると思う。それは有能無能なんて基準ではかれない尊いもの。人間は一人一人違うけど、それぞれの輝きを持っていることは共通している。だからこそ、お互いの存在を尊び、共に生きていきたいと、性善説もいいとこって感じだけど、私はこう貫きたい。と改めて感じるのだ。