自問自答史。

自問自答史。土から風に乗るために今までの自問自答を滑走路にしたいと思い筆を取ります。

畳の目の血 自問自答史1 1998年6月

さっそく今回から自問自答史を書いていこうと思う。(*今回は暗いです。)

みなさんは何歳からの記憶があるだろうか。物心つくという言葉があるが、みんなそれぞれ物心がついた年齢は様々なのがとても面白いといつも思っている。私の場合物心と言える体験をしたのは2歳半だ。2歳半から5歳まではいくつかの印象深い映像、周りの人の声が残っていて、ひょっとすると物心つくとまではいかないかもしれない。しかし、そのいくつかの出来事が物凄く鮮明に残っていて、今日書くことは私にとってもtraumatizedされた出来事であり、今でも自分の家族に横たわるタブーの歴史として語り継がれている。

 

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これはまだ1歳くらいの私。我ながらプリチー♡

 

宇多田ヒカルが "Automatic" をひっさげて彗星のごとくあらわれひたすらPVごっこをしていた1998年6月のこと。その出来事があった日、家族はめいめいの場所でそれぞれのことをしていた。元地方議員で、当時地域事業に関わっていた祖父は会議に出ており、祖母、父は家業。母は夕飯を作り始め、兄はバレーの合宿で夜まで帰らず、姉は勉強部屋で課題をしており、私は居間で1人で遊んでいた。

だいたい午後5時くらいだろうか。居間の隣の座敷で何かが壊れるような音がひっきりなしに響き、誰かが言い争うような声が聞こえていた。何が起きていたかというと、祖父は会議で、自分の案が通らず、怒り心頭。帰ってきて自分でストックしておいた日本酒を一気に一升ほど飲み酩酊状態になっていたらしい。ストレスを酒にぶつけ、よく暴力を振るったり、物を壊していた祖父の真っ赤な顔は今でも強烈に頭に残っている。その日みた祖父も真っ赤な顔をしていた。破壊音や怒号は彼と、彼を止めようとした父と祖母の声だった。音も声も止まず、ビクビクしていると、キャーー!という祖母の悲鳴が聞こえた。居間の襖を開けると、座敷の真ん中に祖父が倒れこみ、祖父の手首あたりから噴き出た血が畳を濡らし、私の方へと染み込んで流れてきたのだ。

私は泣き叫び母が飛ぶように駆けてきて、それからはずっと母に抱っこしてもらっていた。救急車が家の前まで来て、酩酊の祖父が担架で運ばれていくのを母の腕の中で泣き叫びながら見下ろしていた。私の記憶があるのはそこまでだ。

大人になって、このことを家族のみんなに聞くと、兄は合宿から帰ったら座敷がぐちゃぐちゃになっていて驚いていた、姉は勉強部屋から出てこれず震えていた、母は言い争っているのを知りながらも夜6時オンタイムで夕飯を作り終えるのに必死だった。(私の家には6時にご飯を食べ始めなければならないという厳格なしきたりがあり、過ぎると祖父が激昂した)このように家族のそれぞれがそれぞれに色んなことを思っていたと後から知ると面白い。

祖父が運ばれていって、私も泣き止み、みんなの呆然とした表情の中ご飯を食べた。ご飯を食べ終え、居間に戻ると襖の向こうで祖母が、散らかって血の染みが残る座敷を淡々と片付けていた。私は幼ながらに何かを悟った。その時に思ったことは、おばあちゃんはもっと大切にされなきゃいけないのにという悔しさのようなものだった。今その気持ちを思い出すと、あの時、女性に出来る限り寄り添いたいという今の気概がすでに生まれていたのかもしれないなと思ったりするのである。祖母を守りたいという気持ちが、私の生きる世界が拡大していくにつれて、女性の力になりたいと思わせたのかもしれない。

 

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私を抱く祖母の図。

この世に生まれ、たった2年半でこのような強烈な体験をしてしまったため、やはり考えこまずに生きることはどうして難しい。もちろんトラウマ化されて、実際よりも強烈な体験として残っている部分は大いにあるのだが、今世の記憶の始まりがここからだったから、どこかで人は恐いと思いながら、生きていくことになってしまったのかもしれない。私の家族との試練の幕開けだった1998年6月。

 

追記:読み返したらクッソ重い。暗い。ペシミズム気取るつもりはなく、今の感慨を客観的に書こうと努めているのだが、、、ムズいな。笑